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今は、お笑いと漫画と邦画が好きです。

何故バナナマンLIVE『Super heart head market』は2010年代最高傑作だと思ったのか。

僕は後悔するしかなかった。

 

 

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バナナマンは毎年8月の頭に単独ライブを行う。

これは結成した当初から変わらず、彼らがいかに多忙となろうとも実施している恒例のものだ。

 

そして概ね、その翌年の2月にDVDが発売されるのが通例となっている。

 

僕は2017年に開催された『Super heart head market』を3月27日に観た。

これまで、10年以上発売日を心待ちにしていたが、注文したのは3月26日のことであった。

 

ここまで時間が空いた理由はたった一つで、

「ここ最近あまりおもしろくなくて気が乗らなかったから」に他ならない。

 

やっと注文をし、やっと観たのだが、とてつもない後悔をした。

 

声を出して笑うほど、おもしろいコントだったのだ。

 

これこれ、これだよバナナマンは。

うわー、おもしれー。

普通に独り言が出るくらい夢中になった。

 

そして、何故早くこの公演を観ようと思わなかったのか、激しく後悔をした。

勝手に自分でつまらないと思い、勝手に自分で距離を置き、勝手に見直している自分が馬鹿らしくなった。

僕はこの人たちが心底好きで、この人たちがやることは、僕の芯をいちいち食ってくる。

怪物を見続けるのをやめてはいけないのだと。

 

そして、僕は改めて

何故バナナマンが好きなのか

考えようとここに書くことにした。

 本文中に含まれる記述には、多分に自分の妄想が含まれている。

引用で補遺できる部分は極力、引用をしているが、その点を留意いただければと思う。

 

 

 

そもそも何故つまらないと思うようになったのか?

 

バナナマンだけの時間の減少

 

後悔の原因である「ここ最近つまらない」と何故思ってしまったのかを考えなければならない。

 

このことを考えるにはまず、

バナナマンのコントの作り方

から整理する必要がある。

 

実際どのような過程で作られているかは知る由もないが、これまでの彼らの発言からコントの作り方を想像して書くことを前置きとしておく。

 

彼らのコントの作り方は、彼ら自身もそう呼んでいるが、「合宿」である。

 

公演日の2週間ほど前から、バナナマン構成作家陣が事務所の稽古場で寝食をともにしながら作っているため、合宿と呼ぶにふさわしい製作体制である。

 

このような合宿を行う理由は、設楽さんの台本の遅筆さに起因する。

 

例えばプーケットを舞台に一人二役、計4人芝居というバナナマンおなじみのコント「Fraud in Phuket」(2004年『Elephant Pure』初演、2008年『bananaman kick』再演)などは公演当日の朝に完成し、小道具に台本を書き、それをバレないように確認しながら公演していたことが、副音声で触れられている。 

 

この製作体制についてはインタビューでも、触れられている。

 

設楽さんのコント製作について1(2010年7月21日掲載)

インタヴュー(2)「言葉には、覚えやすいものと覚えづらいものがある。ストーリーに流れがあるものは、矛盾なく理論でねじ伏せてあるから覚えやすいんです。」 - TOWER RECORDS ONLINE

― 今までに台詞を覚えられずあせった経験はありますか?

設楽「僕は本番ギリギリまで台本作ってることが多いのですが、自分で作ってるので台詞を覚えてるんですよ。
日村さんは別なので、後輩に読んでもらって覚えたり。でも二人ともギリギリです。
覚えられないまま出るときもあります。
一番最悪だったのは、ライブ初日の朝に台本が出来上がってしまったことがあって・・・。
さすがに覚えられないから、メモ帳に何か書きながら電話をするシーンを設定して。
実は、そのメモ帳に台詞をバーッと書いたことがあります(笑)。これ、かなりぶっちゃけ話ですね(笑)。」

 

設楽さんのコント製作について2(2010年1月21日掲載)

バナナマン (2/4) - お笑いナタリー 特集・インタビュー

──続いて「疾風の乱痴気」はいかがですか?

設楽 毎回、時間がなくて練習するのが大変なんですけど、このときが一番そんな感じだったかもしれないですね。もうほとんど日村さんと合わせなかったし。日村さんにできた台本を届けて、日村さんは覚えて、みたいな。だから、このときは日村さんばっかりがしゃべるネタが多いですね。

日村 絶対噛んじゃいけないコントの台本が2日前くらいに届くんですよ。「うわぁ~やべえ、とんでもねえの来たぞ!」っていう。

──時間のない中で、ネタがギリギリで仕上がることは日常茶飯事なんですか?

設楽 毎回そうなんですけど、このライブは特にひどかった。日村さんが覚えてるときに、俺が違うコントを書くっていう進め方でやってたんですけど。

 

このような体制の場合、リソースはなんといっても時間であり、作家陣含む彼らの親密さに依存するところが大きいだろう。

 

2011年7月22日に放送された稽古場合宿での様子について

7月22日バナナムーンGOLD - JUNK バナナマンのバナナムーンGOLD

親密さがわかる。

 

 

深夜のダベリの中で、これまでにあったおもしろかった人・おもしろかった事、そして深夜テンションで起こるわけのわからないノリ・流れなど、あーでもないこーでもないと言いながら作っている。

 

彼らのコント製作は、合宿中までにアウトプットしたものを稽古場でインプットしなおし、それをブラッシュアップして、アウトプットし直すのである。

 

実際、彼らのラジオ「バナナマンバナナムーンGOLD」内やPodcastでフリートークで出たことが、そのままライブの本ネタになることは多々ある。

(有名なところでは2009年公演『疾風の乱痴気』内「Bad Karma」の「運の総量」「風俗とイソジン」「俺はヤりたいと思っていても、相手は思っていない」などの元ネタは、彼らの無駄話、エピソードトークから引用されたものである。)

 

少し話が逸れたが、ここにこそ彼らのおもしろさがあり、そこが好きでたまらないのである。

 

無駄に見える話を詰めていくと、どこか人間の本質を捉えているようで、しかし深夜のテンションで結局はバカバカしくも心地よい高揚感と疲労感が残る。

 

無駄話を突き詰めた先にこそ、彼らのおもしろさがあるのだ。

 

この製作体制において、ここ数年で明らかに減っているものがある。

それは時間だ。

 

広く知られている通り、現在、設楽さんは朝の平日帯番組『ノンストップ』のメインMCを、日村さんも単独での仕事を数多くこなしている。

2人ともに、多忙であることは間違いない。

 

また多忙さに反比例して、純粋なバナナマンのみの仕事というのは減ってきている。

2人が観客の前でトークするだけのレギュラー番組『バナナ炎』シリーズは2013年に、2人だけで海外を旅行する不定期のネット番組『バナナTV』は2010~2015年の間に全16回を放送し幕を閉じている。

 

明らかに、ここ数年で純度の高いバナナマンである時間が減ったのだ。

そのためコントの製作、特にアウトプットをインプットし直す過程において、今までのようにいかなくなった。

故に、コントの内容に変化が訪れ、自分の求めていたこれまで好きだったバナナマンのコント像からかけ離れてしまったものになっていたのが最も大きな理由であろう。

 

 ただ、ここでまたもう一つ、整理しなければならないことがある。

それは「自分の求めていたバナナマンのコント像」についてだ。

 

 

 

バナナマンとは「狂人」と「狂人」でできている。

ボケ・ツッコミの不在

 人が好きだったものを嫌いになる時は大抵、好きだと思っていた像と違うものが提示され続けてしまった時だろう。

 

一番最初にバナナマンを認識したタイミングなどははっきりと覚えていないが、まず初めに衝撃を受けたコントは覚えている。

 

2008年傑作選LIVE『bananaman kick』でも公演された「ルスデン」である。

(「ルスデン」あらすじ:深夜に帰宅した日村が電話を確認すると、友人の設楽から大量の留守電が残されていた。都度都度留守電を残していたのを追って再生していくと、設楽はとんでもない事件に巻き込まれていっていて……)

 

このコントは、そのオチに向かうまでの構成、2人の人間が壊れていく様、最終的な着地点などの評価が非常に高く、「伝説」とまで言われるコントである。

(初演時はあまりの完成度に、「バナナマンの年齢に似つかわしくない」と言われたほどであることが、副音声で触れられている。)

 

ご多分に漏れず、このコントに衝撃を受けたのだが、それは完成度というよりかは「これをお笑い・コントと呼んでいいのか」という点であった。

 

当時のテレビでは、「ウリナリ」や「笑い犬の冒険」「はねるのトびら」などがコント番組として放映されていた。

よく考えればわかることだが、そこには限られた時間・尺でコントをしなければならないため、長くても5分ほどの時間内でオチまでつけなければいけない。

 

だがバナナマンの「ルスデン」は26分にも及ぶのである。その間、ストーリーは大きなうねりを起こし、日村さんの感情が爆発するまでに至るのだ。

 

「お笑い」「コント」という表現が、ここまで自由であることを教えてくれたのが、バナナマンなのである。

(個人的な補遺になるが、当時バナナマンを知ったのと同時にラーメンズを知ったことも大きな影響があった。ラーメンズも基本的に15分以上の尺でコントをしており、この2組のおかげで長尺の作り込まれたコントが好きになってしまった。)

 

 その後、自分の中でバナナマンを決定づけるコントと出会う。

 

2008年公演『疾風の乱痴気』の大トリのコント

「Wind Chime」である。

(「Wind Chime」あらすじ:売れない脇役ばかり演じる劇団員・日村の元に、雑誌からの取材が舞い込む。それは今までの人生について語ってほしいとの依頼で、これまでの人生で何もなかったと感じる日村は、知り合いの売れっ子脚本家・設楽に自分の身に起こった話を相談しに行くのだが……)

 

ぜひ実際に観てほしいので、ネタバレができず書けることが限られてしまうのだが、キャラクター、小ネタ、構成、大オチに至るまで、これ以上の完成度を観たことがなかったし、今後観ることはないだろう。

(ちなみに40分くらいの尺である)

 

この時までに、自分の中のバナナマン像は完成したのである。

 

この2008年頃までにあるバナナマン像を振り返るとひとつの共通点が浮かび上がる。

それは明確なボケ・ツッコミという関係性が描かれていないことだ。

 

先に上げた「ルスデン」にしろ「Wind Chime」にしろ、コント内のキャラクターに起こった話が語られると言った構成であり、その起こった話も突拍子もない荒唐無稽なものでは決してなく、明らかなボケと言われるような表現も、ツッコミと言われるような表現も見当たらないのである。

 

彼らのコントは、「そのコントで演じるキャラクターと、それらの関係性の間に、ある出来事が起こったらどうなるか」という点を丁寧に描き出しているだけなのである。

 

このキャラクターと関係性について掘り下げていく。

 

まず、彼らの演じるキャラクターにおいて、外見的な設定をいじることはほとんどない。

もちろん、変な服装、変な顔をして笑いを取るものはある。だがそれは会話の流れの中で、自然と出るものであり、頭から「変な顔の人で笑いを取る」という姿勢では決してないのである。 

 

次に関係性についてであるが、彼らのコント内における関係性は、どちらかの地位が一方的に上であることはなく、非常に流動的である。またコント内で「変な人扱い」されるのも、日村さんが演じることもあれば、設楽さんが演じることもあり、どちらもがボケとみなすことができるし、ツッコミとみなすこともできる。

そのため、ボケ・ツッコミが不在の自然な関係性ができあがるのである。

 

つまり自分の中での最も好きなバナナマンのコント像というのは、流動的な関係性の中でボケ・ツッコミが不在のどちらもが変人・狂人足り得るコントなのである。

 

しかしこのコント像に陰りが見え始める。

それは前述した時間問題とも関係する、「多忙」という部分の話になっていく。

 

 

「2度売れる」ことによる逆流

現在非常に多忙なバナナマン両名であるが、ただコントがおもしろいからといって現在の状態ができたのではない。

 

上述してきたことから、もしかしたらわかるかもしれないが、現在テレビなどで観る彼らと、舞台の上に立ちコントをする彼らとは、似て非なるものなのである。

 

それは長年、設楽が提唱してきたコント師は2度売れなければならない」という考えが端的に示している。

 

 

 コント師とテレビで売れることについての言及

バナナマン設楽、KOC優勝後もブレイクせず苦労するシソンヌやかもめんたるに言及「コント師は二度売れなきゃいけない」 | 世界は数字で出来ている

設楽統:ライス、こっから頑張って欲しいけどね。でもさぁ、優勝してもさぁ、この間、シソンヌとかとも違うところで会ったけどさ。

日村勇紀NHKの番組でね。

設楽統:そう、そう。あんまり調子よくなさげじゃん(笑)

日村勇紀:それは前、設楽さんも言ってたけどさ、「コント師は二度売れなきゃいけない」って。

設楽統:二度売れなきゃいけない。関西の芸人は、「二度売れなきゃいけない」ってよく言われてて。

日村勇紀:一回、関西で売れて、もう一回、東京に来て売れるので二回。

設楽統:俺、コントやってる人も、今のテレビって、人間、その本質を出さないと。それが受け入れられるか、受け入れられないかだから。そうなると、コントやってる人って、演じちゃってるから。

日村勇紀:役だからね、アレね。 

 

僕はバラエティー番組に出ているバナナマンももちろん好きだ。日村さんのダメなところに笑いが起こり、それに対して設楽さんが正論で諭すような、その2人の関係性はとてもおもしろいし、的確に視聴者にイメージを残していっていただろう。

 

しかし、2010年代に入ると、このテレビの中での2人の関係性がコントという領域にまで侵食・逆流し始めるのである。

 

僕が彼らのコントに求めているのは、そんなわかりやすい関係性ではない。上下、善悪、美醜、その他すべての相反する事象が一緒くたの綯い交ぜになっている状態こそがバナナマンのコントであったのに、テレビで観るようなわかりやすいボケ・ツッコミの関係性を提示してきたのだ。

 

これらの原因はまさしく「多忙」に他ならないだろう。

彼らがテレビで活動が増えていったことで、コント製作において一番最初の段階であるアウトプットが「ボケ・ツッコミ」のはっきりした状態で凝り固まってしまい、僕の求めるバナナマン像から遠く離れてしまった。

そのために「つまらなくなった」と勝手に思ってしまったのである。

 

 

 

本題:何故バナナマンLIVE『Super heart head market』は2010年代最高傑作だと思ったのか。

全てのアウトプットをインプットし直す。

 

ということでやたらと長くなってしまったが、

自分の中でのバナナマンが整理できたので、本題である2017年公演『Super heart head market』が2010年代最高傑作だと思ったのかに移ろう。

 

これはひとえに、彼らのインプットの対象である「最初のアウトプット」の幅の取り方が、とてつもなく広くなっていることに起因するのである。

 

これまで「最初のアウトプット」は去年の単独ライブから今年の単独ライブまでの一年間ほどでテレビやラジオなど、その場その場での瞬発力によって生まれてきたものであった。そのため、バナナマンだけの時間が少なく、多忙になると、そのアウトプットが非常に乏しくなってしまう。

 

しかし『Super heart head market』で彼らがインプットしたものは、その枠を遥かに超えたのである。

 

過去に公演したコントの要素や、これまでにテレビで彼らが演じてきたキャラクター、そしてテレビやラジオで行ってきた瞬発力によるネタ。それら全てが綯い交ぜになり、完成したのこそが『Super heart head market』なのである。

 

それこそ「ルスデン」の要素が垣間見える部分や、「Bad Karma」の小ネタ、ヒム子で培ってきたオネエの立ち居振る舞い、設楽さんの方が正論を言う関係性を逆手に取るなど、この「多忙」になった2010年代だからこそ成し得ることができたであろうコントの数々が繰り広げられるのである。

 

彼らは、もはや若手ではない。

瞬発力だけで何もかも乗り切ることはできないだろう。

ただ2017年、彼らは「老獪さ」を手に入れた。

これは今まで築き上げてきたものがない人間には、絶対にできない芸当である。

そしてこの方法論を確固たるものにした今、彼らのコントは、途方もないおもしろさにまで行き着くのかもしれない。

 

 

 

色々と書いてきたが、2010年代のライブは「過去に比べれば」つまらなく感じるだけであった。おもしろいコントであることには、何ら変わりはない。

 

今後は、過去のコントを布教していければと思っているので、少しずつ書いていければと思う。

 

 

最後に改めて、『Super heart head market』を貼り付けて結びとする。

 

 

 

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